昭和五十一年 五月二十日 朝の御理解


立教神伝「親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く」 


 親は子薬、子は親薬とということがございます。親が病気をして休んでおります。まあ遠くにいっておる子供がそれを聞き付けて帰ってまいります。もう、どういうお薬よりも子供の顔を見ることの方が親にとっては薬だという意味でしょう。だからまたその反対のことも言えるわけです。それは大体普通なのですけれども、時々そうではない親の面を見るごつもないこともありますね。子供でもそれこそ愛想もくそもないごとなった。そういう例えば親心から出る心の状態、子供の心から親を見る状態というものがです、違っておるような、違っておるほど私は不幸せなことはないと思いますね。親が子を信じれない、子供が親を信じれない。
 最近熱心にお参りされる方です。永年どうしても父親とうまくいかない、それこそ父親の顔を見るごともない、もう子供の時からそうでした。という方が参っております。大変熱心に求めて参ってこられます。どういうようなことからであったかは知らんけれども、最近は私がこうしてお参りをするようになったら家庭が非常に円満にしかもにぎやかになってきた。今までそれこそ何十年でしょうね、父親の顔を見るだけでも父親がおるというだけでも家の中が暗い感じであったのが子に頃にぎやかに明るうなってきたと朝の御祈念に二、三日前でした。初めて私が朝のお参りの時に父親の表まで送ってくれた。
 最近は父親と話をするのが楽しくなってきた。何十年ぶりに通わなかった、交流しなかった親子の中にもう今までかつてないものが交流するようになった。全く神様のおかげだと言うて毎日遠方から参ってきてます。いつも朝の御祈念に参ってきますけれども、昨日は確か午後の四時の御祈念を終わっておるところへ参ってみえた。お姉さんになる方と一緒に参ってきた。そのお姉さんが昨日お届けをされますのに、今朝方からくりかえし何回も神様にお知らせを頂いたことが『不行信原、不行信原』と頂きました。どういうことであろうかと、不行というのは、行をしないということ。不行信原、原というのは野原の原、原さんの原、不行信原、不行信原ということを頂いた。私はその御姉妹のお届けを聞かせて頂いて、親子の中に有り難いものが交流しないということ、それはそのまま神様と私の間に交流するものがないというものと同じようなこと。
 そこに交流の道というか、有り難いものが通い合うということは、子供がいわゆる修行をするということ。そこからです、親と子が通い合うようになり、神様と私共が通うようになる。神様が修行させて下さる、親が修行して下さる。というのじゃ本当の親子の交流はないようです。天地との交流もない。氏子が修行をさせてもらうということ。子供が修行をさせてもらうというところから、何十年ぶりになら本当に親であり子であるという情感が通うてくるだけではなくて、もうそれが本当に最近、父親とお話しをするということがもうとにかく楽しくて有り難い、私が有り難いなら父も大変うれしいようだとこう言うのです。
 それは子供が本気で修行を始めたから、いうなら不行信原ではなくて、行信原、私この原というのはどういう意味なのかよく分かりませんけれども、元といったような感じですね。修行のいうならば元、神様と交流する元、親子が通い合うもとというのがです、行の中から生まれてくる。行によって通うようになる。今日私はこの、立教神伝の一番最後のところの「親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く」というところと、天地書き付けというところがありますね。その天地書き付けの天地の『地』という字を頂いたんです。本当に親にかかり、子にかかりということのためには、この地の修行、ね、もうこれに極まったということです。地と言う字は土偏に成ると書いてあります。 いうならば、地の信心。土の信心に極まったということ。そこから神様と私共の交流、いうならば親子の心の通い合い。初めてまあ本当の意味においての親は子薬、子は親薬というような情感が通うようになってくる。信心が難しいという、信心はみやすいものじゃがとこう言われるけれども、やはり信心は難しいとこう言われる。私は昨日、午後の研修をここでする時にそのことを本当に分からせてもらって何か大発見をしたような気がいたしました。ああ成るほど信心は見やすいのだけれども、自分のめぐりというか、人間のごうというようなものそれに取り組むということが難しいんだということたです。信心は見やすいものです。
 昨日、皆さんに聞いて頂いた中に例えばもう人の真似もできんような荒行をして、人がどんどん助かって大変御比例を受けられたという教会、もう祈念力というたら、すさまじい祈念力。一生懸命に例えば立木がありますね、杉の木なら杉の木、杉の木にしがみついてどうぞ杉の木が枯れるように枯れるようにというて祈りを送るとその杉の木が枯れる。祈念力というのはそんなにあるのです、祈念力とは。だから人の命を助けることも、人を祈り殺す子ともできるほど市の者です、祈りというのは。ね、そういう祈念力で助かったと、または御比例を頂いたという教会、教会長が非常に霊徳にすぐれておられる。
 ね、それでいうならば千里眼的な徳とでも申しまょうか、先のことが分かられるような、そういうようなことで、いうなら信者がたくさん集まったという教会がある。ね、荒行をして人が助かる、祈念力で人が助かる、霊徳によって人が助かる、ところが不思議にそういう大きな教会になりますけれども、二代になり、三代になっておかしなことが教会に起こったり、ね、普通の家では起こらないようなことが難儀な問題が起こったり、そして信者がだんだん少なくなっていったり、一年勝り、代勝り、親の代より子の代というお道の信心。
 金光様を唱えながらそういうことになってくのはどういうことなのかというような話が昨日は私の子供達が四人集まっとります。それに杉田次郎さんを含めてそんな話をした。杉田さんところももう布教九十年というほどしの長い教会、そして次々色んな問題、それこそ話を聞くと小説のような色んな入り組んだ問題がある中にです、どうしてその教会にはこういうようなことが続くのかというところからです、そしたら若先生が言っとりました。これは御比例を頂いた教会はそれこそ初代より二代の方が難しい、三代の方が難しいそれを維持するというだけでも大変なことなんだという話をしておりましたから、私は申しました。今言うように荒行によっていわゆる表行によって人が助かったり、祈念力によって人が助かったりまたは霊徳に優れておられたから人があつまったといったような教会ならいざ知らず、けれども若先生、合楽の教会だけはそんなことはないよと私は申しました。
 ね、私の信心をただ継承さえしていくならばね、例えば耳納の山の頂上を極めたのが私だというならば、もう子供は下から登らんでも、ね、例えば高良山のところからずっとこう発心山の上まで道があるように、ね、頂上を歩いていきさえすればいいのだからそげな難しいことじゃないだろうがと、もとをとって道を開くものはあられぬ行をするけれども、後々の者はみやすうおかげは受けられるということを合楽では示していかなければいけない。親先生は下から登られたけれども、なら二代、三代は上のこの頂上のところだけを間違いなく登っていくんだ。ね、歩いていきさえすればいつも頂上にあるおかげを受けられるのだ。
 それはどういうことかというと、いうならば行く雲、流れる水ということをよく私は申します、ね。いわゆる成り行きに任せ切ったということなんです。同時にならここでは成り行きを尊ぶということです。なぜ成り行きを尊ばねばならないかということが私の信心の始めに、いうならば四年半目に初めて成り行きを尊ばねばならんという訳が分かった。その成り行きそのものが神様の働きだからと確信ができるようになってきた。これも私はわからんなりにそういう修行をさせて頂ながら四年半目にようやく分かったわけです。それはどういうことかというと、私の上に起きてくる成り行き、そのものを大切にしていく以外にはないんだ。
 昨日の御理解をいただくとね、ここんところが昨日の大発見です。成り行きを大事にしていく、その成り行きそのものがおかげだということなんです。ね、神のおかげを知らんから互い違いになってくる。合楽の場合はその成り行きそのものが神様の御働きである、だからその成り行きを大事にとか尊ぶぶとかそれを頂いていくという行き方、わざわざ求めなくっても成り行きそのものを実意丁寧に頂いていく、損になることがあるかもしれん、儲かることがあるかもしれん、痛い思いをするかもしれん、ね。腹がたつようなことがあるかもしれない、けれどもその腹がたったり、損をしたり痛い思いをするそのことがおかげだと思い込み、分からせて頂くことなんです。
 神のおかげをおかげと知らんから互い違いになる、もうここ何十年間私はこれが神のおかげであるということを皆さんに聞いて頂いたんですけれども、昨日ほどここんところをです、それをおかげというふうに聞いて頂いたことは私も、私も説きながらそんなに実感してなかったんです。ね、例えば天地の大恩が分かるといったようなこともおかげが分かることです。病気が例えば全快した、願いが叶うたということもやはりおかげなんです。おかげをおかげと分かったわけです。ね、けれども一番素晴らしいということはです、起きてくる事態そのものが神のおかげだと分かるから二代に続き、三代に続きそれを頂いていきさえすればです、神のおかげをおかげと知らんからどうしてこげん難儀な問題が起こってくるじゃろうかと思う時には神のおかげを知ってないからそげなことを言うとです。どうして私だけがこげな貧乏くじを引かないかんのだと例えばいうなら神のおかげわ知らぬからそんなことをいうのです。その貧乏くじをひくことがおかげなんだと、神のおかげをおかげと分かるわけです。ね、そこに実際に成り行きを尊ぶとか大事にするということになってくると、成り行きをどの程度大事にしてよいか、尊ばねばならんのかというな、いうなら具体的なですね問題に必ず直面するです、実際は。聞いてもうそれは簡単なごたるけれども、けれども実際はだからそういうひとつの問題、一つ一つの問題に取りくまなきゃいけんです。
 ね、昨日研修の時に岩井千恵子さんが発表しておりました中に、今朝方からお夢を頂いた。そのお夢が善導寺の母がホウレン草を畑から引っこ抜いてきて、それを刻んでフライパンで炒めておるところを頂いた。土もついとりゃひげもついとる。いうならいつも私が聞いて頂く私の四年半の信心がそれだったわけです、ね。最近ではもとをとって道を開くものはそういうガジガジの食べられんごたるかえって体に害するようなものを食べなくってもです、もうおいしいところだけ栄養になるところだけを頂くというのが今の合楽の成り行きを大事にすることなんです。だから実にもうみやすいです、今の合楽の信心は。それでよいのだというのです。
 それを自分が分からんから例えば血の涙の出るごたるこってん、やっぱ受けるとが成り行きを大事にする事じゃろうと言うてです、ね、善導寺の母が頂いておるところを頂いてです、本当に千恵子さん、昨日から天地のリズムを聞くようになるということはそれが今日の御理解、昨日の朝のですよ、昨日の朝の御理解と千恵子さんが頂いとるお夢とがピッタリする、だからそれを行じなければおれないというような素晴らしいリズムがでてくるわけです。合楽の場合みんなそうです。だからリズムがでてくるところまで信心をすると信心がたいへん楽しゅうなってみやすうなってくるです。
 ホウレン草のいうなら滋養になるところだけ、土もきれいにに洗い落とす、ひげもむしる、ね、ちっとは赤いところはあそこが一番栄養になるところだからとして頂きゃあ中々甘くておいしい。もちろん葉も頂く、けれどもおいしゅうて栄養になるところだけを頂くのであって、土なら赤い枯れ葉などを頂けとは今の合楽では言ってないのだと、そこをなら極めていくといういわば、成り行きそのものをです、神のおかげとして頂いていくけいこをしていくうちにそれが段々分かってくるんだと。私は本当に昨日の晩に杉田二郎さんを囲んで一緒に話した時にです、合楽の場合は絶対いうならば子孫繁盛、家繁盛親の代より子の代というふうに広がっていくんだと、ただしここんところだけは体得しなければいけないよと、ね。
 昨日の例えば会合の時に栄四郎が出て来ておりました、研修の時に、ね。だから栄四郎はそれを言っているのです。例えばならその御祈念に出て来るとか、ね、親先生のお供をするとか、若先生が朝の御祈念に間違いなくいわゆる節度を守っておるとかその位のことならば難しいことなかろうがっていうわけです。例えばなら小学校とか、中学校位な子供でも新聞配りでもすると、ちゃんと朝の四時なら四時、五時なら五時に起きてしかも盆も正月もない昔の新聞配りというのはね、今はどうか知らんけど、盆も正月もない、それこそきちっと新聞配りでさえやったぞということです。郵便配達さんでん降る日だってん、照る日だってこれだけは必ずぎょうじられたぞということなんです。
 それを信心させて頂いて信心の家庭に育って御恩恵を受けておる、なら僕達がです、たったその位のこと朝、昼、晩の御祈念に出て来る位のこと。いうならば、朝のお務めをさせて頂くくらいのこと、それがもしありあまるくらいな力が出来た時に初めてなら大払い信行もよかろう、自分で工夫した色んな修行もよかろう。栄四郎なんかもう自分で工夫した修行を色々するわけです。そしてその見やすい方の行をおろそかにしてるわけです。ね、だから昨日その研修の時にその話をしたのですけれども、なら私と家の子供というだけではない、私とみなさんの場合だって同じだということなんです。
 そこでみなさんがそういう修行を本気でなさるというところからです、それこそ氏子あっての神、神あっての氏子と神様が言っておられるように、信者あっての私、親先生あっての皆さんということになってくるわけです。ね、例えば昨日申しましたように、何十年間父親とはどうしても気が合わない、交流しない、もう父親がおるだけでも部屋の中、家の中が暗くなる、どうしてこんな父親を持ったじゃろうかと思いよったのがです、本気で息子自身が修行をさせて頂いて金光教の全般というようなことではもう十年間からの勉強をしておりますからそのことは分かってる。
 けれども合楽におかげ頂くようになって金光教の深さ広さに触れてくるところにです、触れてきたところがこれは親じゃない、あれじゃないこれではない、自分自身が極めていく以外にないということが分かってきた。そこで修行が始まった。修行が始まったら父親が変わってもう毎日変わっていく姿に触れてもうありがとうしてたまらんと、そういうお届けが昨日ありました。何十年ぶりにどうしてこういう父親と心が交流しあわなかっただろうかとこう言うのです。親が助かる、子供が助かるなら親も助かる。ね、だから合楽教会ここでみなさんが私を親先生と言うてくださるほどしの皆さんがです、その親先生との交流というものが感じられないならです。
 昨日その姉さんの方がここで言うておられました。ちょうど四時の御祈念をさせて頂いておる時でしたから、いうならば私の後ろ姿を見、触れた途端にもう体が震うように感動が始まった。いうならば、私と通うておるわけです。通うてくるわけなんです。本当に親先生あって今日の私の家があります、私がありますというようなおかげ、ね。いやああんた達が一生懸命やってくれるから今日の合楽があるというならば、あいよかけよで立ち行くところの世界、そこには親にかかり子にかかりという生き方、それにはまず私供氏子の方が参ってくるけれども、不行信原、修行を本当の修行をする者が少ないという神の嘆きであろうがです、それがみんなが行信ばかり。
 本気でそこんところに焦点をおいて修行するものばかり。そこに親と子との喜び合いというものがある。そこに親と子の通い合いがある。そこからいよいよです、ね、神のおかげをおかげと知ることができる。不思議と神様と交流しておる時にはね、暑い時も暑くない、寒い時も寒くない。辛いことでも有り難くなってくるです、神様と交流しておる時には。ある難儀な問題で参ってくる方に昨日私は申しました。もうそればってんか後から今は分かるめばってんか、後でほんとにこんことのおかげで一家が信心にならせて頂いたというてお礼をいうごたるおかげに必ずなるがのと言うてまあ話したことでした。
 日田の大祭を頂いて明くる日でしたかね、大祭の晩だったでしょう、久富茂雄さん御用頂いてから帰りがけられた。帰りがけたら急に胸が苦しゅうなってそのまま、私は帰っておられると思ったらこっちへ泊まっておられた。それであくる朝のお食事も一緒にさせてもらって普通に頂いておられましたからもうこれでおかげ頂かれたなと思っておったら家に帰られてから具合が急に悪くなった。やっぱりその胸が苦しゅうなった。もう俺もこれでしまえるとかもしれんと言われる位にひどかった。ああ息子がお願いにくる、電話がかかってくるというようなことです。それで神様にそのお願いさせて頂きましたらね、こういう大きなあの輪です、よく輪がぐるぐる回って中に人間が入ってするその何かありましょうが。あげな風ですよね、それにそのこれが一つの輪であるというなら土という字がこのへんにはっきりこの辺(下の方)に書いてあるところを頂いた、土という字をね。
 だから土の重みでこれが回るんです。中に人間が入ってこうすると回るでしょうがいくらもこう惰性で。ね、土という字がです、ここんところにありますからこうこう回っていくわけです。茂雄さんの信心を土の信心だという風に言われます。今日の御理解の焦点もそこです。だから土の性格を頂いておるというだけでなら土の生き方、信心がなさらなければだめだというわけです。本当に土の香りがするような、いわば感じの方です。だからならその信心も、なら土の信心にならなければいけない。ね、今日の御理解じゃないけれども神のおかげをおかげとして、ね、神のおかげをおかげとしての生き方。それこそ一切を有り難く受け抜いていくという生き方、受け抜いておるけれどもただ自分の心というか性格的素直さというか、それがただ惰性で回っておるというところなんです。丸い輪に大きな土という字が書いちゃる。これが回りよる、それが何かにちょっと近くに石ころのようなものがあったとする、それにひっかかってゴチッととまったところを頂いたです。こりゃ私も容易ならんことだと思うたです。
 だから私もその晩から一修行させていただいたです。ね、止まってしまう。今朝の御祈念の時にも昨日のことをお願いさせて頂きよりましたら『御神米が五体下がってるんです。その五体の御神米が三体こちらへかえってくるところ』を頂いたです。はあ今日はお礼に来なさるなあと思うたです。というのはどういうことかというとね、五体というのはこの体ということです。ね、三体ということは参るということです。いわゆる参ったということはもうへたばったときには参ったというでしょうが、ね。けれどもなら参ったということはお参りということにも通じるわけです。本当はです、五体がまいるほどしのことであったのだけれども、ね、残った二体がです、いわゆるこれからは本当の意味での土の信心ができるようになればです、御用というならばそういう受け方が後に残っとる二体です。これをこれからの久富茂雄さんの信心のいわば心情ともならなければいけない。性格的に頂いておる土の性格が素晴らしい、けれどもそれだけではおかげにならん。
 その性で惰性で信心が今日まで続いたと。だからその土の性格が土の信心にならなければいけないということ。もうこれから茂雄さんの信心が生涯かけてです、もうここにかけられる以外にないと、受け方を例えば土の受け方土の生き方、大地の信心。それに御用、二体残っておる。これからの信心がここにかけられるいがいにないということになる。そこにいよいよ神様と私のいわゆる神様と皆さんとのいうならばかかわりあいが深くなっていくでしょう、私と茂雄さんとのいうならかかわりあいが親先生あっての私、私あっての茂雄さんというようなことにまでこれからいよいよあかぬけしていくことだろうとまあ思います。
 ね、私は今朝からそういうお知らせを頂いてそして開かせていだたいたら「親にかかり子にかかり」というところを頂いて、天地の『地』という字を頂いた。地という字は土偏に成ると書いてある。ということは土成りということはもうお道の信心は土の信心に極まったということなんです。しかもその土の信心はなぜ極まったかというと、それがおかげなのだからと思い込みが出来なければならない。それで思い込みができてです、成り行きそのものをけして土を食べることはいらん枯れ葉っぱを食べることもいらん、ね、滋養になるところだけを頂くという頂き方でいいのです。そこからね、いよいよいうならば、親の代よりも子の代、私は合楽の信心の一番これが芯であり素晴らしいところなんです。
 私はなら、真似方位の表行もした、祈念も自分の祈念力にある意味で自信も持つくらいの祈念の稽古もした、おかげを頂いてまあ色んな霊徳にも触れてきた、けれどもそれは信心の本当のものじゃない、芯じゃないということ。合楽はそういうものも頂いておると同時にです、ね、いわゆるおかげをおかげと知りおかげをおかげと分かりそれを受けていく修行に取り組んでいくということ。その修行は決して難しいことではない、楽しゅうひとつのリズムがでてくると有り難くなってくるほどしのものであるということ。じゃきじゃきするようなものを、ね、知恵子さんがお夢で頂いておるように原のお母さんがそれこそひっこ抜いてきたばかりのホウレン草を根も葉も土のところもザクザク刻んでフライパンで炒めてそれをたべる、とてもそれはじゃきじゃきして食べられることじゃなかろうと、栄養になるどころかかえって毒になるかもしれん。その心の状態は神様に向ける素晴らしいことですけれども、合楽の信心ではもうそげなことはいらん、自分の滋養になるところだけいうならばおいしいところだけを頂いていくというのですから、いうならば皆さんも私が耳納の山の下から頂上までを極めたんだから、もう皆さんは山の頂上だけを歩いていけばです、皆さんのおかげだけではないいうならば子にも孫にも伝わっていく子にも孫にもそこんところを継承させとかなければ継承しとかなければならないということです。
 もう俺の信心はこれだぞと、俺がおかげ頂けたのはこれだけだからお前たちもここだけは一つ極めていかなければいけんぞとみやすう伝承させて頂くお繰り合わせを願わにゃいけん。ね、いかにも土の信心が難しいということではない、もう信心にこちらがなったらもう楽しゅう出来るのです。さあ土も食べにゃひげも食べにゃならん、赤い枯れた葉も食べにゃということじゃ決してないということです。だらからどうでも皆さんの信心がです、この地の信心に極まったというところを一つ行の上に現れて不行信原ではなくて行信原のおかげを頂いてです、行の焦点をそこに置いてです、ね、おかげを頂きます時に子供が修行する時にです、神様との交流が必ず始まる、子供が修行する時に何十年の親子の中にそういう何か知らんけれどもわだかまるどころかもうこういう素晴らしい有り難い雰囲気が親子の中に交流するようなおかげになってくるということ。ね、初めて親にかかり子にかかりという信心。しかもならこの信心を極め、お取り次ぎを頂いておかげを頂いて世界ではです、決していうならば子にも孫にも伝わっていかんです。ほりゃもうお母さんは死ぬか生きるかという時にこげなおかげを頂いたけんあんたどんも信心しなさいじゃいかんです。
 家はもう金光様のおかげで繁盛しよるとじゃから必ずお前たちも信心せろだけじゃいかんです。合楽の信心はいうなら表行でもなからなければ霊徳でもなからなければただ祈念力だけでもない。これは信心の枝葉であって、その芯になるところは神のおかげをおかげと知ってそれをおかげとして受けて行くという生き方、それをなら今までは大変難しいように感じておったけれども難しいことではない。それを徹底していく、しかも極めていく限りなくそれは。頂いていくことだということをです、今日は「親にかかり子にかかり、あいよかよで立ち行く」ということと、天地の地ということにヒントをえて今日のお話しを聞いて頂きました、どうぞ。